2009年ニュース

【6月18日】  【主張】シベリア特措法 忘れまいソ連の不法行為 第二次大戦後に旧ソ連のシベリアなどに抑留された日本人に1人当たり25万〜150万円の特別給付金を支給する特別措置法が成立した。
 シベリア抑留は、昭和20(1945)年8月に日ソ中立条約を破って旧満州などに侵入した旧ソ連軍によって引き起こされた歴史的な犯罪行為である。関東軍将兵ら約60万人がシベリアなどの収容所に連行され、最高11年半に及ぶ強制労働をさせられた結果、約6万人が死亡したといわれる。-続きを読む-産経ニュース-82
 これは、ソ連も加わったポツダム宣言の日本軍人らの本国帰還を求めた規定(第9条)にも違反している。本来、ソ連(現ロシア)の責めに帰すべき問題である。
 しかし、昭和31年の日ソ共同宣言で、日本はソ連への賠償請求権を放棄した。その後、抑留体験者の一部が国に強制労働の未払い賃金などの補償を求める訴訟を起こしたが、最高裁は平成9年、「戦争被害は国民が等しく受忍しなければならない」として、原告側の要求を退け、補償の要否を立法府に委ねた。
 その結論が戦後65年たって、ようやく出されたといえる。ただ、給付金の支給対象は生存している元抑留者に限られる。帰国した46万人を超える元抑留者のうち、生存者は7万〜8万人で、平均年齢は87歳前後と推定される。
 特措法は、抑留の実態調査や遺骨収集、追悼などを行うための基本方針策定も政府に義務づけた。異国の地で亡くなった人や、帰国後、特措法を待てずに死亡した元抑留者のためにも、国はこれらの義務をきちんと果たすべきだ。
 ソ連崩壊後、明るみに出た機密文書などによれば、シベリア抑留はソ連の独裁者、スターリン首相の指令によって行われたものだ。北海道の北半分の占領を狙ったスターリンの要求を米国のトルーマン大統領が拒否し、その代償として抑留を強行したのである。
 今回の特措法をめぐり、シベリア抑留は「日本の侵略戦争」などが引き起こしたとする論調が一部マスコミにあるが、歴史を直視しない一方的な見方である。
 ソ連の不法な対日参戦で、多くの日本の民間人も犠牲になった。しかも、ソ連は日本固有の領土である北方四島を占領し、ソ連を引き継いだロシアは今も不法占拠を続けている。日本国民はこうしたソ連の不法な行為を子や孫たちに語り継いでいかねばならない。-産経ニュース

【12月02日】 吉野氏が沖縄密約、法廷で認める 「国家のうそ」証言 72年の沖縄返還をめぐり日米両政府が交わしたとされる密約の存否が争われている訴訟の第4回口頭弁論が1日、東京地裁(杉原則彦裁判長)であり、原告側証人として吉野文六・元外務省アメリカ局長(91)が出廷。日本側が従来否定してきた密約の存在を当時の交渉担当者の立場から法廷で初めて認めた。-続きを読む-47 NEWS-82     
                法廷での証言を終え、記者会見する吉野文六・元外務省アメリカ局長=1日午後、東京・霞が関の司法記者クラブ
 元政府高官が公開の法廷でこうした証言をするのは極めて異例。政権が交代し、沖縄返還や米軍の核搭載艦船の寄港黙認などに関する外務省調査にも弾みがつきそうだ。 次回来年2月16日の弁論で結審の予定。 吉野氏は証人尋問で、71年6月の返還協定調印の直前、米軍用地の原状回復補償費400万ドル(当時のレートで約14億円)を「日本が肩代わりで負担する」との密約を交わした、と証言。短波放送中継局「ボイス・オブ・アメリカ(VOA)」国外移設費用1600万ドル(同約57億円)の肩代わりも認めた。
 これらの密約を示す米側公文書への署名については、原状回復補償費関連の文書に残された「BY」のイニシャルを含め「自分が局長室でサインし、事務官がコピーも取ったと思う」と述べた。
-47 NEWS

琉球新報-吉野元局長「密約」法廷で認める 沖縄密約開示訴訟  【東京】1972年の沖縄返還をめぐり米軍基地跡地の原状回復費用を日本政府が肩代わりするなどとした日米両政府が交わしたとされる「密約」文書の存否が争点となっている沖縄密約情報開示訴訟の第4回口頭弁論が1日東京地裁で開かれ、原告側証人として吉野文六・元外務省アメリカ局長(91)が出廷した。吉野氏は原状回復費用と短波放送中継局VOA(ボイス・オブ・アメリカ)移転費用を日本側が負担するとした密約について「局長室で文書に署名した」と述べ、密約を認めた。我部政明琉球大教授も原告側証人として出廷し、日本側負担額の決定過程を証言した。
 日本政府が従来存在を否定してきた密約の事実を当時の外務省の交渉担当者が法廷の場で認めたのは初めて。次回口頭弁論は2010年2月16日。
 吉野氏は代理人の「沖縄返還協定には原状回復費用を米側が自発的に払うと書いてある。返還協定と実際は違うということか」との問いに「そうだ」と明言した。吉野氏は政府答弁者として当時国会の場で密約について明らかにしなかった理由について「(沖縄返還)協定に書いてない事項について、説明することを当時の外務省はやってない」と説明した。さらに「(当時)国会で協定が通りやすいように説明することはあったし、協定ができてもしばらくの間は国会通過のための説明をした」と述べ、沖縄返還協定を成立させるために密約の存在を否定してきたと説明した。
 外交文書公開の在り方についても吉野氏は「日本も一定時間が過ぎた後、誰もが外交文書の内容を研究できるような制度を採用した方がいい」と提言した。
 吉野氏は72年12月、原告の1人で元毎日新聞記者の西山太吉氏(78)が訴追された外務省機密漏えい事件の公判で検察側証人として密約を否定した。しかし06年になってメディアに対し密約の存在を認め、今回の訴訟で37年ぶりに西山氏と対面した。

◆米連邦銀に秘密預金/国、準備書面で認める
 沖縄返還に伴い、日本が秘密枠の巨額の財政負担を行ったとされる日米合意をめぐり、国は沖縄返還密約訴訟の第3準備書面で、日本銀行が6千万ドルを25年間、米連邦準備銀行に預金したことを初めて認めた。
 沖縄返還の2年半前の1969年12月、柏木雄介大蔵財務官とアンソニー・ジューリック米財務長官特別補佐官が交わした「了解覚書」に明記されているが、日本政府は認めていなかった。内容はドルから円への沖縄通貨切り替えに伴い、日本銀行が最低6千万ドルを無利子で25年間、米連邦準備銀行に預け、米側に1億1200万ドル相当の利益を供与すると記されている。
 今回の準備書面で、国は円に交換したドルを預金したことを初めて認めた上で、「無利子で預金したかどうかは不知」とした。秘密合意された25年を超えて米国に巨額の利益をもたらす預金が継続されていれば、沖縄返還密約をめぐる新たな政治問題となりそうだ。

【10月23日】 中国人強制労働が和解 西松建設、訴訟外で補償に応じる  戦時中に強制労働を強いられた中国人元労働者らが西松建設(東京)を訴えたが07年の最高裁判決で原告敗訴が確定した訴訟をめぐり、元労働者側と同社は23日、東京簡裁で「即決和解」した。和解条項には同社が2億5千万円を信託して基金を設立し、金銭補償する条件が盛り込まれた。 -続きを読む-asahi.com-82
         
   和解手続き後の会見で、西松建設側の弁護士(右)と握手する中国人元労働者の邵義誠さん=23日午前、東京・霞が関、越田省吾撮影
 即決和解は、新たな訴えを起こさずに話し合いで争いを解決する裁判手続き。戦後補償裁判で勝訴が確定した企業側が、訴訟外で自ら補償に応じるのは極めて異例だ。西松建設は、最高裁判決で原告敗訴が確定した新潟県での強制連行をめぐる訴訟でも同様に中国人元労働者183人と年内に和解する方針で、戦時中に強制連行された約4万人といわれる中国人元労働者の補償をめぐる議論に影響を与える可能性がある。
 基金による補償は広島県内の水力発電所の建設現場で働かされていたとされる360人全員が対象。裁判で損害賠償を求めた原告は中国人元労働者ら5人だったが、補償対象は拡大された。
 基金は自由人権協会(東京)が管理。補償金額は元労働者らに分配するほか、調査などの費用に使われる。和解条項には、当時の政府の閣議決定に基づく強制連行で元労働者らが受難した事実を西松側が認め、元労働者側に謝罪する文言が盛り込まれた。
 元労働者側が同社に補償などを求めた訴訟は既に終結しているが、最高裁判決が原告の請求を退けながらも「関係者が被害の救済に向けた努力をすることが期待される」と異例の付言をしたことを踏まえ、双方が話し合いを進めていた。西松建設関係者によると、元社長が起訴された違法献金事件などに絡み執行部が交代したことをきっかけに、企業の社会的責任を重視する機運が高まったという。
訴訟は、建設現場で過酷な労働をさせられたとして、中国人元労働者ら5人が同社に損害賠償を求めて98年に提訴。二審・広島高裁は同社に請求全額の計2750万円の支払いを命じる逆転判決を言い渡したが、最高裁は戦後補償問題は戦後賠償の放棄をうたった日中共同声明(72年)によって決着済みとして、原告側の請求を棄却した。
 強制連行をめぐっては、花岡鉱山(秋田県)で働かされた中国人らが鹿島組(現・鹿島)に賠償を求めた民事訴訟の中で、鹿島側が5億円を信託して和解が成立した事例などがあるが、西松建設の勝訴が確定した最高裁判決の後は中国人が戦後補償を求めた訴訟は原告敗訴が続いている。

          
   和解手続きのため東京簡裁に入る中国人元労働者の邵義誠さん(中央)と遺族ら=23日午前、東京・霞が関、越田省吾撮影

【8月13日】 バターン死の行進、元米捕虜らを日本招待へ 政府は、第2次大戦中の1942年4月、日本軍がフィリピン・ルソン島で行った「バターン死の行進」で生き残った元米兵捕虜らを、来年度日本に招待する方針を固めた。-続きを読む-YOMIURI ONLINE-82
  政府が元米兵の捕虜を公式に招待するのは初めて。 元捕虜の間には、今もなお反日感情が残る人々もおり、日本政府としてはこうした活動を通じ、日本に対する理解を深めてもらいたい考えだ。
 「バターン死の行進」をめぐっては、米国内に元捕虜で作る「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」があったが、高齢化に伴い、今年5月、テキサス州サンアントニオで解散式が開かれた。
 この会合に、藤崎一郎駐米大使が日本政府を代表して出席した。「バターン半島・コレヒドール島などで、悲惨な経験をした元戦争捕虜を含む多くの方々に、多大な損害と苦痛を与えたことに、心からのおわびの気持ちを表明します」と謝罪した。日本政府が元米兵捕虜に直接謝罪したのはこれが初めてのことだ。
 計画は、大使の謝罪を受けて動き始めた。来年度中に実施される見通しだ。対象となるのは、「死の行進」の生存者を中心に、元捕虜やその子孫ら数百人となる見込み。記念行事への参加や日本の青少年との交流、一般家庭へのホームステイなどが想定されている。
 政府は2004年度までの10年間、日本が戦争被害をもたらした国との関係を改善するため「平和友好交流計画」を実施した。外務省によると、オーストラリアや英国、オランダの元捕虜については日本招待を行ったが、激しく戦った米国からの招待は実現していなかった。

 一方、日本の戦争被害者らの間からは、政府の計画に疑問の声もあがっている。米国は原爆投下や無差別空襲などの犠牲者に謝罪していないためだ。日本原水爆被害者団体協議会の田中煕巳事務局長は、「米軍捕虜を招くなら、政府は米国に原爆や空襲の犠牲者への謝罪を求めるべきだ」と話している。
 ◆バターン死の行進=第2次大戦中の1942年4月、フィリピン・ルソン島バターン半島を攻略した日本軍が、米軍やフィリピン軍の捕虜約7万人を炎天下で約100キロ・メートル歩かせ、多くの死者を出したとされる事件。死者は「約2万人」ともいわれる。
 日本の代表的な「戦争犯罪」の一つとされる。現地の陸軍第14軍司令官だった本間雅晴中将がマニラ軍事法廷で有罪となり、銃殺刑に処された。(2009年8月13日14時35分  読売新聞)
  

バターン半島死の行進 -
自由主義史観研究会
-大東亜戦争が始まると、フィリピンの総司令官・マッカーサー元帥はマニラを非武装都市と宣言し、マニラ守備軍をバターン半島に撤退させました。
 バターン半島とはマニラ湾の外縁を形成し、その先にはコレヒドール島があります。このコレヒドール島にはアメリカの誇る大要塞があり、マニラ湾に入る艦船ににらみを利かせていました。尚バターン半島は幅24km、長さ48kmの小さな半島です。
 このアメリカ軍は1942年4月10日に降伏しましたが、このアメリカ軍を、日本はサンフェルナンド近くの捕虜収容所まで歩かせました。その間に大量の死亡者を出したので、バターン半島死の行進と言われます。


【2月1日】 戦後処理 日本兵捕虜埋葬者名簿が米公文書館で発見された。:太平洋戦争で捕虜となった後に死亡した日本兵ら約6000人の氏名、階級、埋葬場所などを記したリストが米国立公文書館で確認された。佐賀県みやき町のNPO法人「戦没者を慰霊し平和を守る会」の依頼を受け、東京の調査会社が見つけた-yomiuri online-82


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2008年ニュース

08.12.09 空襲被災集団訴訟 大阪大空襲(1万5000人が犠牲)などの被災者や遺族ら18人が8日、「国は戦争継続という誤った判断で空襲を招いたのに、戦後も援護や補償の義務を怠った」として、国を相手取り、刑1億9800万円の国家賠償と謝罪を求める訴訟を大阪地裁に起こした-82
08.12.09 空襲被災集団訴訟 空襲被災を巡る集団提訴は、2008.8.14日に東京大空襲訴訟(東京地裁 原告132人)を起こしている…国は旧軍人、軍属とその遺族には年金などを支給し、民間人でも被爆者や外地からの引き揚げ者、中国残留孤児らにも援護措置をとっているが、空襲被災者には、何ら救済策を講じていない-82


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空襲被災集団訴訟
 大阪大空襲

 東京大空襲訴訟

 空襲被災者

第二次世界大戦-Wikipedia
 バターン死の行進-Wikipediaは、太平洋戦争大東亜戦争)中1942年フィリピンにおける、日本軍によるアメリカ軍兵士及び民間人捕虜デスマーチ。これに伴い大量の捕虜たちが死亡、負傷した。

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